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共謀共同正犯
国内調査はセシウム137 134の両方のデータが含まれているものもあるが、約半分にして比較しても、チェルノブイリでは鉄条網の向こうに相当する地域に人々を住まわせている。
碧い蜻蛉
ごみ焼却場の焼却灰汚染地図
各地のごみ焼却場の焼却飛灰の放射能濃度を地図に納めてあるページから引用させてもらった。
関心のある方は
(URL:https://maps.google.co.jp/maps/ms?msa=0&msid=210951801243060233597.0004b11da4f6fe01476c4)
を訪問して下さい。
公共のごみ焼却場で燃やされるもので最も多いのが、各家庭から出されるいわゆる”生ごみ”である。ごみを燃やすとほとんど何も無くなると勘違いしている人が多いと思うが、おおよそ、ごみ重量の10分の1は灰として残る。100トンのごみから10トンの灰ができることになる。
つまり、ごみの焼却灰は生ごみの持つ重金属などを濃縮して含有していることになる。放射性セシウムは比較的低温で揮散して焼却飛灰に多く集まるのでやや過大評価になるが、焼却飛灰のセシウム濃度を10で割ってやると、日常的に摂っている食品や剪定枝、紙などの生ごみの放射能濃度を推定することができる。
紫色のマークは焼却灰の放射性セシウムが30,000〜99,000ベクレル/kg、赤が10,000〜29,900、橙色が1,000〜9,999、黄色が100〜999となっている。黄色の名古屋は111ベクレル/kg、緑色の大阪は31ベクレル/kg。
橙色以上は生ごみの汚染が100ベクレル/kgを越える地域になる。要するに地域として全面的にひどく汚染したということが明かな場所と言える。
学生の頃、大学の助手であった市川定夫さんから、放射線による遺伝子障害は3世代先、4世代先に大きく顕在化し、七代先まで影響が及ぶと聞いた。人の住む縁の尽きた場所として放棄しかないと考える。
黄色や緑の地域でも過敏な人たちには鼻血やひどい体調不良を起こしている人たちがいる。大阪のがれき焼却でもたくさんの健康被害が報告された。滋賀県などでも、突然死の報告が増えているように思われる。
まだ見ぬ子孫のためにこれ以上”毒の大地”を残していくことは人として許されうることではない。
(データが飛灰の数値で作図されていることに気付き、文章を改訂した(20150209))
初期から各地の土壌汚染を調査して回った東海アマさんの土壌調査とチェルノブイリ避難区分
科学の方法は、現実の現象から帰納して仮説理論を形成し、その理論を証明する実験体系を演繹法によって見いだし、実験による証明によって仮説理論の正しさを証明する。だれが実験をやっても同じ結論が得られることが厳密に求められる。
大学に入って初めての物理実験でヤング率の計測を行った時、長さの計測、おもりの質量の計測、空気の浮力の補正、上下するバネの先端の位置を読み取る目の位置、そして繰り返し計測を行って統計処理を行うという、科学実験の厳密さに感動を覚えたことがある。
化学実験でもそうだ。今のように皿の上に乗せたら直ちにデジタルの数値が出るようなものでなく、精密な化学天秤に試料をいれた秤量瓶と分銅を同じ温度に保って乗せ、天秤竿の上に乗っている微調整用の小さなおもり(ライダー)を動かして調整して、天秤を小さく揺らし、左右の位置を記録してきちんと釣り合う重さを計算で求め、必要な場合には秤量瓶と分銅の空気による浮力補正を行うという、延々たる作業を行うのが学生実験であった。天秤皿のそれぞれに温度の違うものをおくと、天秤竿の長さが変わりバランスが崩れるためにそうした事態を排除するために分銅も試料も同じ温度で扱う。
非常に厳密で厳しい制約の下で科学が成り立ち、科学に携わると言うことは迂遠なものであるということは普通の人たちには理解が難しいことかもしれない。それが良いことかどうかは軽軽な判断は難しいことであるとおもうが、ともかく、近代科学はそうした厳しさの中で始まった。論理に対する厳密さ、実験の方法に対する厳密さ、そして得られたデータに対する厳密さが科学者としての自己を律する。プロフェッショナルと言われる職業的科学者には、自己の発言にも、マスコミや政治家などとは違う科学に従事するものとしての厳しい責任を求められている。
60年代の大学闘争の核心は、大学がほんとうにそういう厳しさを課して存在しているのかを問うたことにある。
東京大学の時計台の陥落の後、逆バリから始まった関西の大学闘争の中で「ともに大学を守った」教官と学生たちの間で齟齬が生まれてくる。暴力を排除するために三日三晩の籠城を行ったのに、我々は何を守ったのか。学生部にたちこもった学生たちを警官隊の暴力を使うことで排除する教官たち。そして、それを取り巻きながら見つめている学生たち。みずからの手を汚さずに暴力を使っているのでないか。「学問の府」とはなにか。「学問」で飯を食っているあなたがた、なんのために研究をやっているのですか。路上生活者からも金をまきあげて(税金)行っている研究は路上生活者に還っていくのですか。学問の成果がもたらした工業社会の裏側の公害にたいしてはどのように責任を果たすのですか。
公害問題の厳しい時代、日本の大学で被害者の立場に立って発言した教授は5本の指に満たなかった。少なくとも、私たち学生が瀬戸内海の汚染調査に乗り出した1970年頃には、関西の大学の教授で公害の被害実態調査に入ったものはひとりもいなかったのである。工場の操業などの時系列的な因果関係があきらかな事象にさえ、病気との因果関係は認められないなどと問題をあいまいにして企業を擁護する存在があった。
科学の方法の厳しさが自らの行動を律する厳しさになっていない惨憺たる実態がさらされたのが大学闘争の過程であったのだろう。
田中正造の日記「土地あり、耕さざるは天の喜ばざるところなり。しかのみならず、土地を荒らし、土地に毒を流し、作物を殺し、人民の食を失わしめるは、さらに天地人類のために奸悪の罪人とす。明治42年8月(「田中正造の生涯」561頁)